著者は、ある日、資料室で、アッシジの聖者の僧衣を修復した当時の報告書を発見。そこには、聖フランシスコがこの世を去るときまで着ていた修道服は、アッシジのキアラが自分のマントから切り取った布で丹念に繕ってあった、と書かれていた。このことがきっかけになった著者は、うながされるようにその研究に没頭していく。 これは、深い信仰と霊的な一致を物語る心打つもので、切れ端を縫い合わせることの重要さ、ものだけでなく人間同士のつながりの重要さを示していた。フランシスコの継ぎはぎだらけの服は、「兄弟」の世話をしたキアラの役割に光を当てるだけでなく、今日のわたしたちに切れ端を縫い合わせること「繕う」ことの大切さについて、語りかける。 そして著者のまなざしは、必然的に、主イエスの聖衣に向かう。それはフランシスコが、誰もほしがらない、これほどまで粗末な服を喜んで着ることになったのは、イエスの聖衣とのつながりを感じたからだと。キリストの普遍的なメッセージ“愛”を象徴する「聖衣」と、太陽や月や地球つまり自然をたたえ、あらゆる造られしものたちを愛したフランシスコの生き方を表す「僧衣」。「聖衣」と「僧衣は、嘲笑され、力づくで服を脱がされたイエスと、自ら服を脱ぎ捨てたフランシスコという、世界を変えた希有な二人。著者の思いは、二者の間を行き来する旅となった。 若者から高齢者までわたしたち全員には、ボロボロに引き裂かれた、この世というマントの裾を日々縫い直すつとめがゆだねられているのではないか。地球上のすべての人が平和に、兄弟として生きていけるように……。